WJSN(ウジュ)さんが投稿したカスタム事例
2025年08月31日 08時08分
オーディオメインですが、たまに趣味のネタも… のつもりでしたが、備忘録として使ってるので、趣味がメインになってしまってオーディオネタはたまにしかありません。 そのオーディオネタも、この時代にアナログメインです 笑 不快に思った方は遠慮なくスルー&ブロックを…
おはようございます。
今回のネタも?いつものように車ネタでもなく、カーオーディオとか一切ない、誰も知りたくないもないし聞きたくもない自分の個人情報ネタがメインで、(っていつものことですがw)こんな暑い日に書くことでもないんですが…
先日東京の某湾岸エリアのオフ会に参加してきまして、色な方にあるアルバムの曲を聴いていただいたので、その備忘録を。という感じになります。
ただ、その内容は暗い話??ばかりになるので、ここから先は気が向いた方のみでよければ。という感じです。
この某湾岸エリアなんですが、自分にとっては社会人になった頃の色々な想い出がありまして、そのことについて書きたいと思います。
はい、ここから知りたくもないどうでもいい自分の昔話と個人情報です 笑
1988年3月に高校を卒業して(年がバレるwww)今までずっとトラックの運転手をしているのですが、最初に携わった仕事が前年から建設が始まったレインボーブリッジとゆりかもめへの資材輸送の仕事でした。
世の中的にはバブルが弾け始めて、工事の遅延による完成の遅れも言われていました。
結局、建築途中でバブルは弾けたものの、華金や36協定なんてもんはない時代でしたので(リゲインの「24時間働けますか?」なんて酷いこと言ってた時代ですかね?)、まさに死に物狂いで運転し生涯で1番稼いだ時代でもありました 笑
そして、この工事の資材置き場拠点として芝浦側が使われていたのですが、当時このエリアは"ウォーターフロント"と呼ばれ、ナウなヤングが集まるエリアでもありました。
そしてそのナウなヤングが集まるエリアに、1989年「芝浦GOLD」というディスコが オープンしました。
ここは倉庫を改装して完成したのでフロアが全7階、3〜5階まで吹き抜けのメインダンスエリア、そのメインフロアの壁はほぼスピーカー。(壁に寄りかかれませんでした)
そして、今でいうVIPルーム(個室で音楽を聴かないスペース)も最初に設置した、当時としては巨大で斬新なコンセプトで著名人も多く来店し、とにかく大人気なディスコでした。
で、中学生の時から新宿の東亜会館や渋谷のラ・スカーラなどのディスコにこっそり通っていた不良な自分は、忙しい合間を縫って通っていました。 笑
そして、このディスコで奥さんと出会い(ナンパではありませんw)、そして知人のエンジニアとも出会ったという、大変想い出深いディスコでもありました。
1991年には同じエリアに皆さんご存知のこちらがオープンしました。
ジュリアナ東京ですね。
自分はそんなに行きませんでしたが、奥さんは写真のようなことをしていました 笑
あと、これは本当にどうでもいい情報ですが、お立ち台で踊る時はボディコン(死語w)と、ノー◯ンにストッキング着用が暗黙のルールだったそうです 笑
(奥さん情報)
そして芝浦エリアの再開発計画とバブルが弾けた影響もあり、ジュリアナ東京は1994年に、GOLDは1995年に閉店となりました。
と、話はレインボーブリッジに戻しまして…
着工から約6年経った1993年にレインボーブリッジが開通。
自分的には広島にある三菱重工業の工場から、新型車両を陸送輸送するという大仕事をしたゆりかもめは、2年後の1995年に開通しました。
この工事の間に、結婚・そして娘が生まれるという、人生で色々なことがあった時期でした。
という、まさにどうでもいい個人情報がダダ漏れです 笑
その後某湾岸エリアにおいて「世界都市博覧会」の計画が発表され、この地区の工事の資材輸送の仕事を請け負うことに。
が、皆さんご存知のように"意地悪ばあさん"こと青島幸男知事が、まさに意地悪っぷりを発揮?して都市博の中止を実行。
そのために建築計画が二転三転して、当時自分たちも振り回されましたが…
色々な資材輸送をしました。
夢の大橋の架橋工事(1996年完成)
ヴィーナスフォート(1999年開業・2022年閉業)
アクアシティお台場(2000年開業)
パレットタウン大観覧車(1999年開業・2022年閉業・解体)
特に大観覧車は、観覧車部分の骨組みを陸送輸送するという、大切な仕事もさせてもらい想い出深い観覧車でした。
ということで、自分で勝手な解釈をして大袈裟に言うと、お台場の歴史はまさに社会人としての自分の歴史のような物と言っても過言ではないかと 笑
そして……
ここから暗い話?となるので、大丈夫な方だけwww
2004年 アメリカで仕事をしていた奥さんが体調不良を訴えて、子供とともに帰国。
アメリカでも健診はやっていましたが、すでに末期でした。
アメリカスタイルで本人に告知。
気丈な性格だった奥さんは、落ち込むこともなく残りの余生をどう過ごすかのプランを計画。
本人の気が済むまで行きました 笑
そして、結婚当時お互いに忙しくて何もしてなかったので、エンジニアの知人の計らいでこちらで結婚15周年記念をお祝いしてもらいました。
そして最期は、自分が資材輸送したことがあり、レインボーブリッジや大観覧車が見えるということもあり、2005年に有明駅前に完成したこの場所を選びました。
余命宣告の倍生きるという、担当医もビックリの偉業を成し遂げました。
で、翌年の2006年に15周年のお祝いをした「DUG」が一旦閉店し、その最後のライヴレコーディングにエンジニアの知人の恩人である、SONYの伊藤八十八さんが仕切ることになり、知人もアシスタントとして参加したそうです。
というわけで、オフ会では奥さんの20回忌ということあり、そのライヴレコーディングのアルバムを聴いてもらいました。
こちらのアルバムの最期の曲、そしてライヴでも本当に最後の曲だったという「The Way We Were」という曲を聴いてもらいました。
まぁ、そんな暗いエピソードを聞かされた上に、夜の湾岸エリアでバラードチックなJAZZを聴かされたら、そりゃ高評価するしかないじゃん。となるわけですがwww
というとても面倒くさいことをしてきました。
皆さんも、想い出深い曲ってあると思うんですが、今回は一応節目ということで書かせていただきました。
最後まで読んでいただいた方は、本当にありがとうございましたm(_ _)m
長文駄文も失礼いたしました。