スープラの長野県ドライブ・善光寺・川中島の大合戦・風林火山・毘沙門天に関するカスタム事例
2025年11月10日 20時01分
HV、PHV、EV、FCV、、カーボンニュートラルの矢面とされた自動車業界はまるで幕末や明治維新のよう。 DOHC 直6 3000cc ツインスクロールターボ 2シーター 時代に逆行する言わば【ラスト・サムライ 】なのです。 この車を「絶滅危惧種」として敬遠する者は、真の車好きではないでしょう。 時代遅れ?燃費が悪い?この車から降りれば皆笑顔に。何故なら、車本来の楽しさがそこにあるから。 新しモノ好きなザンギリ頭にも、きっと滅びゆく侍の偉大さがわかるはず。
どもっ、、R〜2です、、
いつもお付き合い頂きありがとうございます、、
紅葉の季節となりましたね、、
何時も立ち寄るとある駐車場より、、
此方の木々達も色付いてきました、、
本番は来週くらいからなのでしょうか、、
と、、
待ってはいられなくなりまして、、
一気に長野県まで、、
霧雨が降ったり止んだり、、
ひんやりした湿った空気がなんとも気持ちが良いのです、、
さてこの場所は何処かお分かりになりますか、、
平日の月曜日とゆう事もあり、、
狙いの通りとても空いてます、、
奥に見えてきた建物は、、
仁王門、、
巨大な木像建築、、
巨大な木彫り像、、
素晴らしい、、
意外と最近で、、大正時代のモノらしいです、、
がしかし、、
現代の技術では材料も技術も手に入らない訳で、、
御線香を焚いて、、
いざっ、、
善光寺へお参りに、、
以下、Yahoo AIアシスタントのコピペ
善光寺は長野県長野市にある無宗派の仏教寺院で、日本最古とされる仏像「一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)」を本尊としています。この本尊は絶対秘仏とされており、普段は目にすることができません。1400年以上の歴史を持つ善光寺は、「一生に一度は参れ善光寺」と言われるほど、昔から多くの人々の信仰を集めてきました。
善光寺は欽明天皇13年(552年)に、インド・百済を経て日本に渡った仏像が、本田善光によって信州の地に安置されたことから始まります。特定の宗派にこだわらず、すべての信徒を受け入れてきたという特徴があります。
一生に一度は参れ善光寺、、
実は二回目なんです、、
訪れた年齢で感じ方も変わります、、
映画や小説も同じです、、
1400年前って、、
確か聖徳太子が亡くなった頃、、
そんな太古に、、
こんな巨大な木像建築物を人力で建てる技術と権力って、、
想像を超える凄さ、、
流石に長野県まで来れば、、
紅葉も本番を迎え、、
イチョウには、、
コロコロした銀杏の身が、、
善光寺にておみくじ、、
なんと大吉、、
初詣に続き、、またも大吉、、
確かに色々ありましたが、、
今年は良い年になりました、、
所変わり、、
川中島の大合戦の地、、
そう、、
武田信玄と上杉謙信の大合戦、、
風林火山vs毘沙門天、、
以下、Yahoo AIアシスタントのコピペ
川中島の戦いは、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が、北信濃の領有をめぐって複数回にわたり衝突した合戦の総称です。
川中島の戦いは、1553年(天文22年)から1564年(永禄7年)にかけて、計5回繰り広げられました。この一連の戦いは、長野県の川中島地域が主要な舞台となりました。
武田軍では武田信繁や山本勘助らが討ち死にし、上杉軍でも死傷者が多数出ました。この戦いでは、信玄と謙信の一騎打ちがあったという伝説も残されています。両軍ともに勝利を主張し、決着はつきませんでした。
と、、
両軍3万人が戦い7千人が討ち死にしたとか、、
大合戦の後、、武田信玄は敵味方の区別無く、、大勢の討ち死にした亡骸を手厚く葬ったとか、、
それを知った上杉謙信は大変感激し、後に塩不足で悩む武田信玄に対し塩を贈ったという、、
敵に塩を送る、、
の語源となりました、、
正しく武士の魂、、
見習いたいモノです、、
川中島にも、、
燃える様な紅葉が、、
亡くなった武士の血の色の如し、、
なんて、、
とっ、、
長野県にまつわる壮大な歴史を体感できた1日でした、、
あれっ、、
何処かで見た車、、
マツダ フレア、、
通称、、銀さん、、
かわゆす、、
実はスープラで行って無かったりして、、
