RX-7の中部FD会・岡山遠征・後楽園と岡山城観光に関するカスタム事例
2025年12月01日 12時16分
毎年恒例!中部FD会 岡山遠征🙌
✨岡山観光✨ 編
今年も中部FD会の皆さんと1泊2日で岡山まで出掛けてきました☺️
中部出発時はFD3台!🚗🚗🚗💨
本当は関東組のお友達と合流してFD4台で走る予定だったのに、早朝にお仕事が入ってしまい、岡山で合流する事となりました😢
そして岡山までの道中、渋滞の嵐...😩💦
集中工事に加え、交通量がとにかく多い...😱
覚悟はしてたけど、予想を超える渋滞だった💦
なので道中の写真は一枚もなし‼️😅
でもみんなで楽しく走りきり〜🚗🚗🚗💨
1時には岡山に到着🙌
そして関西組のお友達と無事合流😉👍
1年振りの再会です✨
一通りお話で盛り上がってから〜
さ、観光しますよ♪
こんな素敵な秋色の路地を進み〜🍁
はい!岡山城🏯
木々と川越に眺める岡山城はめっちゃ素敵です😍
関東組のお友達は岡山市の方なので、ジモッチならではの絶景を案内してくれました😉
そしてまずは、めっちゃ楽しみにしていた〜
日本三大名園の一つ、後楽園✨
岡山後楽園は岡山藩主 池田綱政の命で1687年に着工、1700年に一応の完成をみました。その後も藩主の好みで手が加えられ、江戸時代の姿を大きく変えることなく現在に伝えられています。
広い芝生地や池、築山、茶室は園路や水路で結ばれ、歩きながら移り変わる景色を眺めることができるよう工夫された回遊式庭園です。全長約640mの「曲水」が園内を巡り、池や滝になって優れた水の景色を作り上げています。
水戸 偕楽園、金沢 兼六園と共に「日本三名園」の一つとも称され、国の特別名勝に指定されています。
園内からは見事な日本庭園越しに岡山城が望め、それはそれは良き眺めでございます☺️
そして後楽園にはタンチョウが飼育されています🙌
観騎亭(上)
藩主が家臣の乗馬の上達ぶりを見た建物で、馬場側にも窓が開いています。戦災をまねがれ、往時の姿を今に伝えています。
寒翠細響軒(下)
背後の松林の緑と前面に広がる沢の池の清らかな水の趣にちなんで名付けました。
慈眼堂(上)
1697年、池田綱政が還暦を迎えたえた時、池田家と領民の繁栄を願って建立し観音像を祀りました。
烏帽子岩(下)
境内にあるこの岩は、花崗岩を三十六個に割って運び、もとの姿に組み上げたそうです。
後楽園の絶景スポット✨ 沢の池越しの岡山城🏯
後楽園のパンフレットの表紙写真の絶景です🙌
素晴らしい😍美しき日本庭園✨
中の島(上)
園内で一番大きな沢の池にあり、島茶屋があります。沢の池にはその他、釣殿のある御野島、白砂青松が美しい砂利島があります。
八橋(下)
八橋に添えてカキツバタが植えられています。
流店(りゅうてん)
中央に水路を通し、色彩に富んだ奇石六個を配した全国的にも珍しい建物です。藩主の庭廻りや賓客の接待などで、休憩所として使われました。 戦災をまぬがれた建物の一つで、簡素なたたずまいを今に伝えています。
茶祖堂
もとは利休堂といい、幕末の岡山藩家老の下屋敷から移築された茶室で、千利休を祀っていました。
戦災で焼失し、1961年再建。
岡山出身で日本に茶を伝えた栄西禅師を合祀したため茶祖堂と改めました。
廉池軒(れんちけん)
藩主・池田綱政がもっとも愛用した場所とされ、朝食や下賜の場として記録が残る。 1934年の水害後に復旧し、戦災を免れたため往時の姿をよく伝えている。
切石の石橋と対岸の小島、円窓を備えた茶室が景観の要となっています。
なんとなんと!
この蓮池軒で一際目を引く円窓のお茶室【漣波の間】でお抹茶を頂くことができました🍵
こんな素晴らしいお茶室で、みんなで一服頂けるなんて大変光栄なことでございます😌
問われたので、一応作法はお伝えしましたが〜
お茶の真髄は「美味しくお茶を頂くこと」なので、作法など気にせず好きにお抹茶と菓子とを頂けばいいのです!正座じゃなくてもいいんですよ👍
円窓を中心に記念撮影🙌
実はあんこ苦手なお友達はお茶室前のお庭で1人ソフトクリーム食べて待っててくれました☺️
なので〜
室内に6人、円窓の外に1人(上)
お庭のお友達が撮ってくれた円窓から顔お出すお茶室内の6人(下)
どっちもいい写真だわ😉👍
因みにお茶室【漣波の間】内はこんな感じ🙌
正面の床には掛軸と花器が飾ってあります。
みんなが座っている場所が客座。
左の誰も座ってない赤い毛氈(もうせん)の部分が手前座(お茶を点てる場所)で、隣の小さい正方形に切れた畳の部分が炉(ろ、釜をかける場所)です😉
風情あふれるとても素敵なお茶室でした☺️
さ、後楽園を後に橋を渡って岡山城へ行きますよ😌
ジモッチのお友達が〜
「この橋の上から見る岡山城が一番キレイ」
と教えてくれたのですかさず撮った一枚🙌
なるほど!カッコいい岡山城と旭川の風景がとっても素晴らしい🏯岡山城のBest shotです✨
廊下門(上)
本丸の裏手にある櫓門で、門の上にある上屋には敵を迎え撃つ目的がありました。
上屋は本段(城主の住居)と中の段(政治の場)結ぶ城主専用の廊下として使用されており、廊下門と呼ばれていました。1966年の再建。
不明門(あかずのもん、下)
本段に上がる入口として防備を高めた大型の城門です。上段には藩主が暮らす御殿殿(江戸城でいう大奥)があり、限られた人しか入れませんでした。江戸時代、藩主の移動は天守近くにあった渡り廊下が利用され、この門は閉ざされていたことからその名が着いたそうです。1966再建。
岡山城🏯
豊臣秀吉の家臣で豊臣五大老の一人・宇喜多秀家が、8年の歳月をかけて1597年に完成。豊臣秀吉の指導を受けて築城したと伝わっています。
岡山城の城下町として整備された市街地を、その後の城主である小早川秀秋、池田家が受け継ぎ、さらに整備・拡張していきました。
黒漆塗りの下見板をはめ込んだ真っ黒の天守閣が有名で、その外観から烏城(うじょう)とも称されます。
1945年の空襲で一度は焼失するも、1966年に再建されて、戦国時代から江戸時代の岡山の歴史を伝える博物館となっています。
岡山城は五重六階建ての天守ですが、その天守台は「不等辺五角形」という非常にめずらしい形状です。同じ長さの辺や平行な辺がひとつもなく、これは全国の城の中で唯一無二です。
各階の平面形状を見てみると、1階は天守台と同一の不等辺五角形、2階は北側の突出部を少し後退させたことで不等辺六角形に、3階は出窓を持つ屋根裏階で十字のような複雑な形状となり、4階でやっと長方形に、6階ではついに正方形になります。1階の不等辺五角形を上階へ上がるごとに少しずつ修正しながら、「五重六階」という高層建築をつくり上げているのです。
天守は防御のための実戦的な施設ではありますが、象徴としての「見栄え」はとても重要でした。岡山城天守は1階平面が「不等辺五角形」であるという制約を創意工夫で克服して、秀麗な外観をまとうことに成功しています。
ここからはお城の中の資料館!
まずは江戸時代のジオラマ🏯
立派なお城ですねぇ😌
こちらは昔の岡山城絵図🏯
先程も紹介したように、岡山城は不平等五角形をしているので、見る角度によってお城の趣が全く異なります!
東側(最も短い辺)から見るととてもスリムなお城で、北側(後楽園や橋の上から見える方角)からはとても重厚で立派なお城です👍
絵図にはないけど南側(下のみんなで撮った写真)からは、橋から見た印象より随分と単調に見えました😌見る角度でこんなに印象が異なるお城って、凄いし面白い☺️
岡山城の主な城主は宇喜田家、小早川家、池田家✨
そして右上は岡山城のロゴ!(めっちゃ好き😍)
岡山城の特徴の不平等五角形に、3大城主の家紋が配されています😉👍
この3つの家紋を見た時、びっくりした‼️
見たことある!誰の家紋か、分かる‼️🤩
昨年1年掛けて回った【関ヶ原史跡巡り】でこれらの家紋を全て見ていた🙌関ヶ原の合戦に大きく関わった三家が、この岡山城の城主だなんて✨
いろいろ繋がって、改めて歴史って面白いなって感じました😌
初代城主 宇喜多 秀家
父直家の代から岡山を治めた戦国大名。石山の城の隣の丘「岡山」に天守を持つ新たな城を築き、城下町づくりを行った。天下を統一した豊臣秀吉の時代に有力大名となる。日本史上最も有名な戦である「関ケ原合戦」では、西軍の主力となって戦ったが、破れ、その後、八丈島に流刑となり、同地で約50年暮らしました。
2代城主 小早川 秀秋(左)
豊臣秀吉の甥として生まれ、「関ケ原合戦」では、勝敗の重要な鍵を握った。「関ケ原合戦」後、岡山城に入場し、改築に取り組んだが、岡山に来て2年足らずで、21歳の若さで亡くなりました。
5代城主 池田 光政(左)
自ら先頭に立って政治改革を行い、政治や教育、災害対策など現代につながる岡山の基礎を築いた。江戸時代初期の名君として知られる。
6代城主 池田 綱政
新田開発や治水事業に取り組む。文化にも明るく、岡山城に隣接する日本三名園の一つ「岡山後楽園」を造営した。
店主の最上階から〜
金のシャチホコ越しに後楽園と旭川を望む絶景✨
今回もみんなで楽しく観光できて、良かったわ☺️
で、毎回恒例!
夜はみんなで楽しく呑みました🍻
で、2日目はMAZDA FAN MEETINGへ
🚗🚗🚗🚗🚗💨
(その模様は一つ前の投稿!)
